社長の映像コラム1「アバター考」

やっさんみたいにみんなの役に立つことが書けたらいいんですが、技術も実績も何もないもんで日々映像について思うことを書いてみます。
思うことといえば映画「アバター」のこと。見終わって思ったことはたくさんあるんですが、とにかく感銘を受けたのは①映像技術の革命②エンターテイメントにおける作り手の思い です。
アバターについてはその技術的側面が大きく取り上げられています。その中でも僕が強い印象を受けたのは立体視技術よりもフェイシャル・モーションキャプチャーの活躍でした。
3DDGの製作方法には様々なものがあると思いますが、役者の動きをカメラで撮影しその動きをデータ化して動きをつけるというモーションキャプチャーもその一つです。で、表情の動きをもキャプチャーしようというのがこのフェイシャル・モーションキャプチャーなのです。これにより、役者の動きだけでなく「演技」までもがデータ化することが可能になり、CGなどで描かれた背景とのマッチングが格段に良くなることになりました。
この技術により異星人のような架空のキャラクターが生身の人間と同じレベルで演出できることになり表現の幅が広がりました。映像のすべての要素を自在に扱えるということはアイデアの真の解放だと思います。クリエーターの頭の中ではすでに過去も今も未来も、嘘も現実も何もかも隔たりなく存在します。ところがそれらを組み合わせて物語を紡ごうとすると映像化する際に技術的制約を受けてしまっていました。「このアイデアは素晴らしいが映像化不可能だ」というように。その中でも演技に関する問題は大きく、製作費の問題(この爆破シーンには○○億円かかるから実写化困難といった類)とは異質の本質的な障壁でした。感情移入ができなければ物語をかたること自体ができなくなります。そこを乗り越えたこの技術は今後の映像作品に大きな変化を与えるものでしょう。ちなみにキャプチャー機材に囲まれた特殊な環境での演技が人工的(ロケ地でちゃんと衣装を着てメイクして行う撮影に比べ)だといった見方は正しくないと感じます。そもそも映像自体が編集された時の断片のモンタージュでありリテイクだらけで極めて人工的です。それより画面に映されるすべてのものをコントロールできてこそ表現だと思います。
さて、②のエンターテイメントにおける作り手の思いとは。
アバター」の感想としてストーリーがかなりストレートであったなという点があります。批判的な言い方をすれば「はずかしいまでに素直」というか。でもそれがこの映画の大切なエッセンスなのではないかと思うのです。エンターテイメント作品は常に観客のことを考えなければなりません。見てもらってなんぼのものなのですから独りよがりの展開、表現は慎まれるべきです。が、だからといって、遊園地のアトラクションのようにただエキサイトさせるだけでは観客の心に何も残せないのではないでしょうか。そもそも方法論だけで作れるのなら監督は必要なく工場ででも作ればいいのです。つまり、観客を楽しませるという姿勢は保ちつつも、その人にしか作れない作品でなければならないのです。それがキャメロン作品では達成されているのです。あの類まれなる興行成績の結果もその賜物ではないでしょうか。
「熱い心を冷静な手でカタチにする」のがエンターテイメント映像の掟だと思います。
*画像は現在取り組んでいる作品のイメージイラストです。