5月20日の夜

更新が一ヶ月滞ってました...。個人的に体力的にも精神的にも疲れてしまい、ちょっとダウンしてました...。GWは九州行ったり、最近はバイトしたりしてる状況でした。最近やっと復帰しつつあります。GWは大学の先輩である山根さんが東京からわざわざ仙台にボランティア活動しに来てくれていたらしいです。非常にありがたい話です!
最近は仙台戻ってきてから、震災のニュースを全く見てないです。あまりに辛くて見れないというのもあるし、現実感が無くなってきました。本当にあんな凄惨な出来事があったんだろうかと。しかし近くには間違いなくまだ被災地があるでしょう、しかし今は、直視するのが非常に辛い。見て見ぬ振りをしてます。あまりに九州と東北のギャップを感じてしまったからかも知れません。いずれ、またボランティアで被災者の人達を助けたい...という気持ちだけを密かに持ち続けてます。

今日は3月6日に行った山形蔵王での写真を載っけてみます。この時は全く地震の事なんかこれっぽちも予感してませんでした。ただ暴風のなかで見た樹氷の迫力に圧倒されてました。3月11日以前の出来事が、すごく、昔の出来事のような錯覚を感じてます。東北の人たちにとっては皆そんな感じなのかも知れません。ともかく樹氷は綺麗で良かったな〜。
やっさん


4月21日の夜

一週間ぶりです。こんばんは。やっさんです。
今週は書類の確認でハローワーク行ったり、ボランティアに荒浜や多賀城に行ってます。会社からMacを譲ってもらったので(intelPCじゃないのが残念だ)、その為のデスク作成もしてました。壊れた本棚を分解して切って、更に引き出し式のデスク部分も板で作って、カスガイをはめて...、形にはなりましたが、また更に改良しなくてはいけないかも知れませんね。


先日改めて荒浜地区をボランティアで行ってきましたが、うーむ、一週間前と全く変わってない。
遠くの方に見えるのが海岸線に植えられてる防砂林というやつで、この木が手前まで流れてきてるわけです。この辺も元々は結構家があったらしいですが、地平線になってます。田んぼや畑にも瓦礫が散乱してますが、誰一人片付けてる人はいません、そこまで手が付けられない。家の片付けを手伝いはしてますが、その作業も終わりがまだまだ見えない地道な作業でして、そしてまたこの荒廃した土地に住めるかどうかという展望もまったく無い。
そうした所に住んでる人達は、皆ギリギリのところで生き延びて、今があります。この前聞いた話では、『津波が来るのが見えて、急いで近所の家の2階に駆け上がった。その前に孫を迎えに行くという娘には、「自転車で行った方が良い」と伝えてて、自転車で戻ってくる途中に波にが来た。もしも車で行ってたら、非難できずに車のまま流されていただろう。隣の家の家族の1人は亡くなった。近所の家では相当な数の盗難事件が頻発してたから、今でもみんなでパトロールしている...』
瓦礫は散乱してるものの、今は一見、本当にのどかな田舎町。そんな所がそんなに過酷な状況に陥っていたとは、同じ市内に住んでいても分からない。市内にも非情な温度差が絶対的にある。仙台市街地は普通の生活に徐々に戻りつつある。朝になればサラリーマンが普通に通勤している。そこから5km先では瓦礫が散乱し、砂埃が舞っている。TVで見れば非常に力強くもあり、さっぱりしてる所もあり、忍耐強くもあるように見える被災者の方達ですが、直面した津波経験談を聞くと本当に凄まじい。そんな方達が、自分の家も無いのに、どこからかもらってきたお茶やジュースをわざわざ出してくれる。自分もそういう東北人になりたいと切に思った。
やっさん

4月13日の夜

先週土曜は鳴子温泉に行ってました。高速バスで1時間ちょっと、1200円、すこし高い。山形行きが確か900円なので、高いかな。秋保は入浴時間に制限があったり、旅館が損傷してたりという状況らしいですが、鳴子は普段どおりやってます。割と地盤が固かったようです。しかしいつも以上に閑散とした温泉街になってました。我々は早稲田の湯というところで、1時間ゆっくり湯船に浸かりました。いや〜良かったです。施設は寂れてますが、お湯は最高です。
日曜はZEPP仙台で沖縄でのチャリティーイベントがパブリックビューイングされてたので見てきました。南こうせつが苦笑を誘ってましたが、トリのBEGINで仙台の会場もすごい盛り上がりました。ピースフルな雰囲気のBEGINは素晴らしい!琉球民謡のノリと音色は仙台の我々の心にも響きました。
で、今週はまたボランティアで泥掻きやってました。非常に筋肉痛になるし、泥だらけになりますが、高校生や大学生の生の声を聞けたり、外国人の英語教師と英会話できたりと、普段絶対に関われないような人達との出会いがあり、その収穫はなかなか大きいです。今週は個人的には雇用保険の手続きとか地震保険の調整とか、細々した事をやって、週末は焼肉パーティーやります。ハローワーク行くとすごい行列だったり、コンビニもまだまだ棚に商品が無かったり、小学校では給食が当分パンと牛乳のみだったり...まだまだ元の生活に戻るには時間がかかりそうですが、焦らず行きますよ。
やっさん

4月8日の夕方

昨日の余震はヘビーでした。5階の我が家はまるで巨大ドリルで下からドカドカ突き上げられてるかのような、激しい揺れ方でした。寝てたんですが、一瞬のうちに目が覚めました。意識0→100の切り替えを強制的に行ったせいか、非常に頭痛を感じながら、次々に物が落ちていくのを見てるしかありませんでした。照明が徐々にスーッと落ちていき、街の明かりも落ちていて、また暗闇の中ラジオを聞くしかありませんでした。実家に電話が繋がると、親父は再び眠りに入ってました。あーだこーだ嫁さんと話したり、とりあえず暗闇の中片付けたりして、深夜2時頃寝ました。
今日はとりあえず片づけしようと思い、ボランティアに行かずに片付けしてましたが、意外とすぐに電気と水道が復旧。とりあえずまたすんなり元通り。街も何事も無かったように通常の雰囲気になってました。しかしガス復旧もまた遅れそうなので、ついにガスコンロを買いました。もっとはやく買ってもよさそうなものでしたが。東北の多くの地域でまだ停電してるみたいですが、電気が有るのと無いのとでは心理的にも大違いなので、早く復旧する事を心から願います。
ツイッターでも僕が書いてたんですが、過去の日本の巨大地震で26日目に巨大余震が来てるという統計があって、ちょっと気持ち的には意識してたんですが、まさか本当に来るとは。これからは統計を信じようかなという気持ちになりましたね。




写真は今週行った多賀城ボランティアの現場。多賀城は本当に過酷な状況...。県外からのボランティアが沢山来てくれている。感謝です。おととい仕事辞めて東京から来たという若人とも話したり。仙台のホテルはいっぱいで予約とるの大変みたいです。
民家の泥掃除という事で行ったんですが、部屋の中には信じられないくらい滅茶苦茶に散乱した家具があり、何とかマンパワーでそれらを運び出す。ガスのメーターとかも落ちてたりする。どこからか流されてきたコンデンサーが大量に散乱してる。一番危険なのは窓ガラスなどが泥の中に散乱してるのでそれらを集める。釘とかも出てるので注意。冷蔵庫の中の食べ物も腐ってて、それらの悪臭と汚水液が結構きつかった。海のヘドロを巻き上げてきた泥の匂いもなかなかきつい。まだまだこんな家が沢山あります。
やっさん

4月6日の夕方

今週もボラ活動続行中です。今週は民家と老人ホームの泥掻きやってます。津波が1階まで来てた場所を主に行ってるんですが、本当にひどい事になってます。けど家の人たちもめげずに掃除してます。1階に置いてあったモノはほぼ全滅。買ったばかりのTVが...とか言いながらも、ボランティアメンバーにお茶とお菓子を出してくれたり。その気持ち、本当にありがたい。
若林区の小学校のような避難所も徐々にですが縮小しつつあるみたいで、徐々に我が家の復旧を始めてるのかも知れませんが、家がもはや無いという人達も当然います。すぐ近くの近所の小学校でも避難所生活している人たちがいます。本当に津波の境目が運命の境目になっていて、津波が到達しなかった畑は今日も耕運機で耕し始めてる。波に浸かってしまった畑はどうしようもない。何故かブロッコリーは塩に強いらしいですが、ほとんどの農作物は長い間作る事ができない。塩が抜けるのに何ヶ月、何年かかるか...、しかも海底のヘドロを巻き上げて油も含んだ津波...予想以上に損害をもたらしています。実際に行くと分かりますが、泥が油絵の具のような匂いを発散しているのです。塩竈気仙沼石巻の方は更にひどいでしょう。南三陸陸前高田...あまりに悲惨でかける言葉すら見当たりません。
宮城県の南三陸のあたり、仙台市内から車で1時間以上はかかるちょっと遠い所なんですが、仕事で一回行った事があります。海がきれいで、風景がすごくのどかで良い所なんですよ。海近くの魚屋さんが海産物とか確かオリジナルの牡蠣ビールとか売ってたんです。あそこももう無いでしょう。すごくのどかで平和な場所だったんですが...。南相馬にも行ったことがあります。被災地は本当に近いんです。けどやはり津波の境界線が天国と地獄を分けました。天国ゾーンは普通の生活に戻ってます。地獄ゾーンは本当に過酷な状況です。
仮設住宅の話も然りなんですが、当面の生活資金や、賃金の出るボランティア活動などの雇用促進など、少しばかりでも自立心の生まれるような、希望の見える国からの支援、必要です。
実家が荒浜で、家が流されて、生活も余裕が無いという、そんな人でさえ、今日もボランティア活動なさってました。頭が下がります。
やっさん

忘れてはいけない体験

震災から3週間経って、ガスはまだ来てないものの、身近な生活はかなり元に戻っている。余震もかなり減った。朝になって外に出ると、そこにはいつもの光景が広がっている、ように見える。しかしながら地震当初の忘れてはいけない体験を言葉に残しておこうと思う。これは東北の全員が体験した事の一部に過ぎないだろうけど。
・信号が止まり、譲り合いで車が行き交った。自転車屋からは自転車が消え(みんなが急いで買った)、自転車で行き交う人たちが増えたが、皆が余裕が無く目の前しか見えずにいつもぶつかりそうになった。
・数日電話が通じなかった。
・停電し、夜の街のアーケードが真っ暗になっている光景を見て恐ろしかった。そして上を見上げると見たことも無い星空が現れていた。今はもう見えない。
・夜はロウソクとラジオで過ごした。映像でその状況を把握する事が出来ず、言葉だけでその状況を聞いていくと恐ろしかった。どこまでが被災されたのかも分からなかった。とにかく余震が大きくてそして多く、本当に眠れない夜が数日続いた。緊急地震速報が心臓に悪い。そしてその速報が間違ってる事もしばしばあった。
・いつまでライフラインが復旧するか見通しが無く、いつもライトを持ち歩いていた。貯水タンクが壊れているケースが多く、うちも蛇口から水が出せるようになるまで時間がかかった。それまでは下から水を汲んで、バスタブに貯めて使った。
・灯油を節約するため、早く寝た。羽毛布団があっても、夜は非常に寒かった。
・マンションでも行き交う人たちが声をかけ合った。皆が「食べ物、水はちゃんとあるか?」と言い合った。
・ラジオで「あなたは1人ではありません。あきらめないで下さい」と繰り返し放送していた。地震から数日して山田ひさし(たぶん)がずっと喋りっぱなしで勇気付ける言葉と音楽をかけてくれた。緊張感ある番組しかなかったので、彼のDJは相当多くの人たちの緊張を和らげてくれたと思う。
・県外の知り合いからメールをもらった。ありがたかった。
・友達みんな無事で、それぞれがそれぞれの状況でもタフに生活していた。落ち込んでる人はいなかった。
まだまだライフラインが無い状況で生活している人たちがいる。本当に過酷な状況だと思う。救援、支援を続けてくれてる人達には心から感謝したい。
やっさん

4月3日の朝

週末はボランティアで老人ホームの泥掃除。この泥というものは予想以上に本当に厄介でした。手でも摑めないし、かつ細かい所に詰まると硬くなって手でも剥がれなくなる。本当は大量の水で水圧で流す事をやらないと、すっかりキレイにはならない。水が出ない地域はまだまだあるから、本当に大変だろうな...。けどとにかくやり続けるしかない作業。そんな家がまだまだ無数にあると思うと、先は本当にまだまだ長い。けどやり続けてる人達が今日もいます。
昨日は街で落語を聞きに行ってきました。東京から夜行バスで駆けつけてくれたそうです。こういった状況でも避難所からも「落語やらないんですか?」という問い合わせがあったそうです。年配の方たちにはすごく良い気分転換かも知れないです。TVではまたしょうもないバラエティ番組が始まってきました。原発を初めとする報道番組にも辟易してましたが、再開した諸々のくだらない番組には更にがっかりしてます。「全てが元に戻っていく復興」ではなく、無駄だったものは切り捨ててよりシンプルで地元に密着した復興が必要なのではないか...と思います。そういう意味で東京からその新しい姿勢を見せて欲しい。だって都会で住む人たちの生活を支えてたのは、今回被災された地域の人たちが育んでた農作や酪農や漁業などの第1次産業だったのだから。
やっさん