25日の夜

震災からあっという間に2週間が経ちました。昨日は軽い気管支炎になってしまい、一日休んでましたが、今日は良くなったので思い立って、荒浜→仙台港近辺→多賀城を自転車で周って撮影してきました。2週間経って本当に道路も整備されましたが、それでも散乱する瓦礫と車の量にやはり震災と津波の大きさに再度驚かされました。特に多賀城市役所近くの45号線はたまに車で通ったりする場所なので、そこが大破した店舗や折り重なった車とで散乱してるという風景に再度直面しました。本当に信じられないという気持ちが湧いたのとと、現場でそこに居合わせていたらどうなっていたかと想像すると言葉が出ません。後日その映像と写真はアップしますが、本当にキリが無いほど、同じような場景が国道のみならず近辺の道路にて展開しています。被害の大きさは予想以上でした。
そして、あの日から、自分の環境と生活が文字通り一変しました。あの日、普通に会社でPCに向かっていた時、地震速報が鳴り、大きな揺れと共に、次々と蛍光灯やPCの電源がパツッパツッと落ちていきました。確かに大きな揺れですが、「まだ外に非難するほどでもないのかどうか?」という判断に迷いながら、徐々に電気が落ちていくのを見ながら、自分はサンダルのままで外に出ました。外では同じように会社から出てきた人たちが動揺した表情で周りをキョロキョロしていました。パニックになるほどでもなかったですが、近くの20階近いビル群が、まるでコンニャクのようにグニャグニャと揺れてる様を見て、更に大きな揺れが来るのではないかとハラハラしました。揺れは長く続きました。揺れというか、まるで地球が大きく揺れ動くのを感じました。ビルが次々と崩壊するのではないかという恐怖を感じ、とにかく道路で周りの大きな建物を皆で凝視していました。誰かが「これが宮城県沖地震か?」と言いました。余裕がありつつも笑みはこぼれません。同じビルの5階くらいにいた人が何故か笑って外を見ていました。原付に乗ったおじさんが携帯のテレビを見てました。津波は10mという情報が入ってました。その時は「それは無いだろ」と思いました。しばらくして落ち着いた後、街へ出ると、人が皆外に出て、道路が人で埋まってました。その時はそれほどの被害はなさそうだと思いつつ、自転車を走らせました...。
今朝、うちの水道が復旧し、蛇口から水が出るようになりました。仙台もまだ都市ガス(30万世帯くらい?)は復旧してませんが、もう少しで復旧する見込みらしいです。そして自分の仕事は無くなりました。この劇的な変化が11日に起きました。多くの東北人にとって、2011年3月11日は全てを一変した日になりました。
やっさん